「観光立国」といっても内閣があんなじゃ誰も来ないよ
日経新聞はいろいろ勉強になる。京都国立博物館長の興膳宏氏がこういうことを書いておられる:
「観光」の語は、『易経』に始めて見える。「国の光を観る。用て王に賓たるに利あり」とあるのがそれである。「国の光を観る」とは、国の盛んな繁栄の様を観察するということ。そうした輝かしさにあこがれて、多くの人々が国王の賓客になろうとする。小泉内閣が「観光立国」をいうなら、この言葉の意味を噛みしめるべきだ。
たしかに興膳氏のおっしゃるとおりだ。人は外国に「偉大なもの」を見に行くのである。エジプトに行くのも偉大なエジプト文明に接したいためだし、ローマだってそうだ。ニューヨークに行く人はエンパイヤステートビルディングや多くの美術館にアメリカ文明の偉大さを実感するのである。万里の長城や凱旋門もそう。もちろん「偉大な風景」も観光の対象となる。結局「あの国はすごいな」ということで観光に行くのである。
興膳氏は次のような強烈な皮肉をいわれている:
強者の顔色をうかがうばかりで主体性のない追従外交に終始したり、官邸が音頭をとって弱者に対する集団リンチを扇動したり、閣僚が国民の義務である年金を払っていなかったり、この国の「国の光」は無きに等しい。もう誰も来ないのではないか。
あと一つ。前から言っているのだが、市街地の電柱・電線と看板を何とかする必要がある。イラクですらあんな醜い都市景観ではない。
興膳氏は次のような強烈な皮肉をいわれている:
小泉首相は新年の施政方針演説で、外国人を対象とした「観光立国」の政策を推進すると述べた。それはよいが、そのためには国が応援団ではなく、当事者であるとの立場をよほど自覚してもらう必要がある。
強者の顔色をうかがうばかりで主体性のない追従外交に終始したり、官邸が音頭をとって弱者に対する集団リンチを扇動したり、閣僚が国民の義務である年金を払っていなかったり、この国の「国の光」は無きに等しい。もう誰も来ないのではないか。
あと一つ。前から言っているのだが、市街地の電柱・電線と看板を何とかする必要がある。イラクですらあんな醜い都市景観ではない。
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